Simple Life
〜前途多難だけど洋々〜
9話

〜飛鳥井明日香〜

 マンションに戻り、エントランスからインターフォン代わりの部屋番号を押して五行さんを呼び出す。
『もしもし?』
「五行さん? 私です、飛鳥井です。開けてもらえる?」
『飛鳥井? どうしたんだ、一体?』
「忘れ物をしたの。取りに行くから、開けてほしいのですけど」
『忘れ物? あったかな、そんなの……。まあいいや、開けるから上がってきてくれ』
「ありがとう、すぐに行くわね」
 通話を切り、ロックを開けてもらった私はすぐにエレベーター乗り込み、五行さんの住まう階へ向かう。
 目的の階に着いたが、私は一度深呼吸してから降りた。
 歩きながらも高揚する気分を落ち着ける。
「……よし」
 ドアに取り付けられたもう一つのインターフォンを押し、来たことを告げると「入ってくれ」との返事。
「失礼します」
 靴を脱いで上がると、リビングに続くドアが開いて五行さんが顔を出した。
「リビングにどうぞ」
「はい」
 言われた通りリビングまで行くと、テーブル付近で五行さんが腕組みをして立っていた。
「で、何を忘れたんだ? 連絡あってから一応探してみたけど、忘れ物っぽいものなんてなかったぞ?」
 首を傾げる五行さん。それはそうだ。実際、忘れ物なんてないのだから。
 目に見える忘れ物、と言う意味では。
「そうね、物理的な忘れ物ではないの。別のものよ」
「……どういう意味だ?」
「忘れたのは――言うなれば情報なの。私は、五行さんに訊きたいことがあるの。それが、忘れ物」
「つまり、俺に訊き忘れたことがあるから、わざわざ戻ってきったのか? 妙な理由まで付けて」
「そうなりますね」
「……アホか」
 五行さんは呆れたように息を吐いた。
 ……む。そういう言い方をしなくてもいいと思う。こっちは、それなりに勇気を出してきたのだから、もう少し優しくしてくれてもいいはずだ。
「アホとは随分ですね。知りたいことがあって仕方なかったのだから、しょうがないでしょう。そういう真摯な気持ちまで蔑ろにするの、あなたは」
「そういう意味じゃねえよ。わざわざそんなことしなくても、訊きたいことがあるなら言ってくれれば教えるさ。別に隠すようなことはないしな」
「……なら、お言葉に甘えさせてもらおうかしら。五行さん、訊きたいことあるから、教えて下さい」
「おっけ、いいよ。何が知りたいんだ?」
 その問いに私はいったん目を閉じ、ゆっくり三つ数えてから目を開けて、言葉を紡いだ。
「――ご両親のことを」
「……わかった。ちょっと長い話になるかもしれんから、座ってくれ。今お茶を淹れるわ」
 五行さんは私の答えに軽く目を見開いたが、小さく頷いて了承してくれた。
「ありがとう」
 私は二重の意味を込めてお礼を言い、静かに腰を下ろした。
「なに。しっかし、俺の親のことを知りたいなんて、飛鳥井も酔狂だなあ。どんな風の吹き回しだ?」
「気になったから。そうとしか言えません」
 それが真理。それ以外の理由なんてない。
「ふーん。ほい、お茶。と、お茶請けの大学芋だ」
「あら、美味しそうね」
「俺の好物さ。実際美味いぞ。……さて、両親のこと、か。どこから話せばいいのかね」
「最初から――話してもらえる? その後は私が質問していくから、答えてくれれば」
「わかった。とはいえなあ、最初からと言われても。一分で終わるぞ」
 頭をポリポリと掻いて、本当に困った表情の五行さん。どうやって話せばいいのか、決めあぐねている感じだ。
「なら、単刀直入に訊きます。ご両親は――存命でいらっしゃるの?」
 これがまず知りたかったことの一つ。
 五行さんとどうして離れて暮らしているのか――いや、そもそもまだご存命でいるのか、それが知りたかった。
 それがわかれば、部屋が空っぽの理由もわかると思った。
「生きてるよ」
「そう……なの?」
「ああ。死んだって話は聞いてないから、どっかで生きてるだろ、多分」
「……は?」
 どっかで生きてるって……そんないい加減な。
 そんな私の感情が出ていたのだろう、五行さんは苦笑すると肩をすくめた。
「そんな変な顔をするな。今詳しく教えてやるからさ」
「……お願いするわ」
 キーワードだけ言われて、真相は闇の中ではまさに生殺しだ。
「ま、簡単に言っちまうとだ。母親は俺が幼稚園の時に男作って逃げた。父親は俺が小五ん時に女と逃げた。それから俺は一人暮らし。それだけのことさ」
「なっ……!?」
 絶句した。
 お母様は男性と逃げて、お父様は女性と逃げた……!? 五行さんは「それだけのこと」なんて嘯いているが、それだけのはずがない。
 それはつまり、ご両親は、五行さんを捨てたことに他ならないのだから。
「ちょ、ちょっと待って……! その話からすると、五行さんは小学生のときから一人暮らしをしていることになるわ。そんなこと」
「あるんだな、これが。もっとも、ずっと一人でやってきたわけじゃない。父方の祖父母が色々と援助してくれてるからできることだよ。いくらなんでも小学生のガキが一人で暮らせるかって」
 五行さんはケラケラと笑ったが、私はとても笑える心境にはなかった。……当たり前だ。今の話を聞いて、どこに笑えるところがあったというのだろう。
「な、なんでっ」
「は? 何が?」
「何で、そんなことにっ。ご両親はどうして」
 五行さんを捨てたんですか――その言葉を、やっとのことで飲み込む。
 離婚されたというのなら、まだわかる。だけど、それすらもなく、ご両親は五行さんを捨て、別々の人を選んだ。
 それは、決して許されることじゃない。自分の子を捨てることに躊躇いはなかったのだろうか。もしなかったとしたら、言葉は悪いけれど、親となる資格はない――。
 そうとしか思えなかった。
「あの二人は親であることよりも、一人の女、一人の男であることを選んだんだ。今さら言っても仕方ねえよ。なんせ」
 そこまで言いかけ、五行さんは静かな瞳で私を見た。
「聞くか? 俺の昔話。結構長いけど」
「もちろん」
 即答していた。
 どんなに辛くて悲しい話でも聞く。そう決めていた。
 五行さんに少しでも近づくために。その心を知るために。
「わかった。なら、話そうか――」
 そうして、五行さんは、ゆっくりと話し始めた。

「俺が母親のことで覚えていることは笑っちゃうくらい少なくてな。父親と言い争いしている後ろ姿と、二つの台詞。『私は母親になりたくてなったんじゃない。女として生きたいの!』『あなたと違って、私を女として見てくれる人が私にはいる』――これだけだ。幼稚園児だった俺には意味がわからなかった。母親は母親であって、それ以外の何者でもなかったからな。でも、俺にとってはそうでも母親にとっては違った。まだ若くして俺を産んだあの人は、家庭に落ち着くのが嫌だったんだろう。……それがある日」
「何があったの?」
「幼稚園から帰ると、平日だってのに父親が虚ろな顔でいてな。何があったのか訊ねてみると、ただ一言、『母さんはいなくなった。今日から俺と匠の二人暮らしだ』てな。俺はそれを聞いて、二度と母親と会うことはないんだと唐突に理解したよ」
「でも、それが本当に男性と逃げたってことには」
 ならないのではないか――と希望的観測を述べたが、五行さんは苦い笑みを見せた。
「一応年端も行かないガキの俺にはわからないようにしていたみたいだけど、言い争いやら男の存在を仄めかす言葉やらを何度も見聞きしてるんだ、わかるさ。それに、人の口に戸は立てられないとはよく言ったもんで、母親が出ていった後も色々と噂が立ったし、そういった噂にやけに詳しい近所のオバちゃんてのはどこにでもいるからな、そういった人から話を聞かされたりもした。それらを合わせりゃ、いくらガキでも父親とは別の男と出ていったことくらい嫌でも理解するって」
「……そう、かもしれないわね」
 五行さんの言っている意味はなんとなくわかる。大人は、子供には理解できない話と勝手に決め付けるけど、意外と理解しているものなのだ、子供というのは。
「それから、俺は父親と二人で暮らし始めたんだけど――これがまた面倒なことに、父親がヘコんでヘコんでどうしようもなかったんだよ」
 思い出すのも嫌だと言うふうに、五行さんは顔をしかめた。
「落ち込んだってことよね?」
「まあな」
「仕方のないことではないの?」
 でも、それは当然なのではないだろうか。妻が別の男と出ていったならば、落ち込んでしかるべきだろう。
「確かに飛鳥井の言うことも正しいよ。でもよ、毎日泣き言言われてみろ、嫌んなるぜ?」
「毎日?」
 さすがにそれは、嫌になるかも知れない。
「やはり惚れた女に捨てられたってのはかなりショックだったらしくてな、一週間くらい影背負ってた。ま、それでも生活もあるし、何とか立ち直った――と思ってたんだけど、なあ」
「……違ったのね」
「うん。仕事を再開してからというもの、帰りが異様に遅くなった。最初は仕事が忙しいんだと単純に考えていたんだけど、違った。わざと帰ってこなかったんだ」
「どういうこと?」
 わざと帰ってこない……? 一体、何の意味が……?
「妻と暮らしてた家に帰るのが苦痛だったらしい。妻との想い出が、匂いが、生活の後が残るこの家に帰るのがな。今はいないという空虚感が余計に強く感じたんだろう、夜中過ぎまで帰ってこないのが普通だった。それに、帰ってきたときには必ず正体を失うくらいに酔ってた」
「…………」
 何も言えない私を余所に、五行さんは淡々と話を進めていく。
「それが平日で、仕事が休みの日には朝から酒飲んで泥酔してるか、戻ってくるはずのない母親を捜しに出かけるかが父親の休みの過ごし方だった。暴力とかは振るわれたことはないけど、褒められたこともなけりゃ、遊びに連れていってもらったこともない。授業参観だって来たためしがねえ。家事だってそんなんだから、全部俺がやってたしな。そんなのが数年間、続いた」
「家のこと、小学生なのに全部やってたの……?」
「そうだよ。俺がやんなきゃ一週間で廃墟になるわ」
 肩をすくめた五行さんは、お茶を一口飲んでから話を続けた。
「あれは俺が小五になりたての時だったかな、確か。家に帰ると、何故かテーブルの上に大量の菓子パンとホールケーキが一つ置いてあった。その隣には通帳と印鑑」
「それって、もしかして」
 その意味するところは。
 先を知りたいのに、促せない。ここまででいいという冷静な声が脳裏を走る。
 しかし――ここまで聞いたのなら、最後まで聞かなくては。それが最低限の義務だろう。
「おうよ。飛鳥井の想像した通りだ。パンとケーキは気にはなったけど、父親のいない夕食なんていつものことだったから、それ以外は特に気にもせずに食べ終えて片付けをして、テレビを見てた時に電話が来た。……父親からだった」
「どんな内容の?」
「こんな内容――『俺はもう、母さんを捜したり待つ生活に疲れた。一から――いや、ゼロからやり直すことにした。全てをリセットする。それに、今俺の隣には一緒にやり直したい、やり直してくれる人がいるんだ。その人と新しい人生を歩むんだ。だから――お別れだ。匠、お前とは一緒に暮らせない。……じゃあな』――ここで電話は切れた。こちらに話す暇など与えずに一方的に話して、一方的に切れた。父親とはそれきりだ。会ってもないし、声も聞いてない」
「なんて親なの」
 酷い、酷すぎる。新しい人生を歩むというのはいい。自分たちを捨てた妻のことはすっぱり諦め、新しくパートナーを見つけるのはいいことだと思う。
 でも、それが自分の子を捨てていい理由になんて絶対にならない。五行さんのお父様が言ったのは、ただの自己弁護の言い訳。
 親としてのみならず、人としても侮蔑――唾棄してもいい人物だ。
「俺の両親はそんな人たちだったのさ。とまあ、そんなことがあって、当時の俺は何が何やらわからなくてな。混乱していたところに、父方の祖父母の爺ちゃんと婆ちゃんが飛んできた。何でも父親が連絡していたらしい。さすがに後ろめたさがあったようでな、事情を説明するだけして、俺のことは爺ちゃんたちに押し付けたんだと。爺ちゃんも激怒してたなあ。『あのクズが! 我が息子ながら八つ裂きにしてやりたいわ!』てな感じで。でもって、詳しいことを教えてもらって、ようやく俺は自分が捨てられたって理解したんだ」
「五行さん……」
「その後、爺ちゃんたちにはこの家を出ることを勧められたよ。ま、当然だな。小学生を一人暮らしさせるわけにゃ行かないから、引越し&転校をしろって言われた。でも、俺は断った」
「なぜなの?」
 お爺様の言うことはもっとも。五行さんのを心配してのことだから、従うのが賢明だったはず。それを断ったのはなぜなのだろうか。
 あ、でも、もし引っ越していたら、私は五行さんと会えなかった可能性もあったのか。それは嫌だ。
「ん〜。言うなれば、負けたくなかったから、かな」
「負けたくなかった、から?」
 何に?
 首を傾げる私に対し、五行さんは自嘲の笑みを浮かべた。
「ああ。両親は俺を捨てて、男として、女としての人生を選んだ。自分の子供よりも自身の幸せを重視したってことだろ? そんな選択の煽りを食らって、俺がここで引っ越したりしたらあの二人に負けたみたいじゃんか。それが嫌だったんだ。俺はここで、ちゃんと暮らしてる。真っ直ぐに生きてるって、言いたかったんだよ。まあ、偉そうなこと言ったけど、十年ちょっとしか生きてないガキのつまらない意地とプライドだよ、結局はさ」
「そんなこと、ないわ」
 私は、素直にそう言った。
 五行さんはつまらない意地とプライド――そんなふうに言ったけれど、違うと思う。
 きっと彼は、胸を張りたいのだ。自分を捨てたご両親に対して『俺はちゃんと生きているぞ』と。
 それに、この家を離れないのは思い出があるから。
 やはり、ここは家族と暮らした家なのだ。暖かな記憶がなくとも、ここは五行さん一家が暮らした家。
 それを――自分の預かり知らぬ、勝手な理由で崩壊させられて、離れなければならないのが我慢ならなかったのだ、きっと。
(五行さんは否定するでしょうけどね)
 それが彼の意地だから。
「そうかな。そう言ってもらえると何か嬉しいね。それでその後、俺が頑として首を縦に振らないもんだから、ついには爺ちゃんたちが折れてな。一週間に一度は爺ちゃんの家に顔を出すとか、条件がいくつか付いたけど、俺がここで暮らすことを許してくれた。そして今に至るというわけだ」
 五行さんの話は、締めくくられた。
 私は、聞いた話をもう一度頭の中で咀嚼し、ゆっくりと身体に浸透させていった。
「五行さん」
「ん?」
「訊きたいことがあるけど、構わない? もしかしたら、答えづらいかもしれないし」
 話を聞き、私には五行さんに訊ねたいことがあった。ただし、これはかなりデリケートなもの。
 質問するにも勇気がいるが、答えるにもかなりの勇気がいる。
 いくら五行さんとは言え、答えたくない可能性は十分にある。
「取り敢えず言ってみ? 答えるか答えないかはそれから」
「わかったわ。なら訊くけど」
「ああ」
 私は、思い切って訊いた。どうしても訊きたかった、あることを。
「あなたは――ご両親のことを、恨んで、ないの?」
 これが訊きたかった。
 私だったら、間違いなく恨んでいる。私でなくてもそうだろう。自分を捨てていった両親。恨むなと言う方に無理がある。
 だけど、五行さんの口調からは、ご両親に対する暗い感情は感じなかった。
 恨んでいないのだろうか――。
 私の問いに、珍しく五行さんはキョトンとした表情を見せた。
「恨む? 何で?」
「……え?」
 答えに、今度は私がキョトンとする番だった。
「さっきも言ったろ? あの人たちは母親、父親であることよりも女と男である事を選んだんだと。父親とはキャッチボールすらしたことなし。顔も段々とぼやけてる。母親に至っては顔も覚えてない。そんな二人を恨んだところでどうなるっての。恨み言を抱えて生きるなんて真っ平御免だ」
「強いんですね、五行さんは」
 そう思った。恨むのではなく、受け入れて、その上で生きると言う五行さんを私は強いと思った。
「そんなんじゃないって。けど実際、今更二人が戻ってきて『父さんだ』『母さんよ』とか言われても困るけどな。呼べやしねえっての」
 五行さんはまた苦笑を浮かべた。
 それはそうだ。今更帰ってきたところで、呼ぶ義理などありはしない。追い返されたって、彼らに文句を言われる筋合いなどはない。
(でも――それでも、五行さんは一人きり……)
 お爺様、お婆様がいらっしゃるといっても、結局のところ五行さんは一人。起きていても、学校から帰ってきても、食事も寝るときも――誰もいない。一人きりで過ごす毎日。
 寂しくはないのだろうか……?
「五行さん、もう一つだけ質問させて」
「別にいくつでもいいけど」
「五行さん……寂しく――ない?」
「……寂しい?」
「ええ。だってそうでしょう? この広い家に一人で暮らして。申し訳ないけれど、この家が私には寒々しく見えたわ」
 特に、ご両親の部屋を見てから――。
 五行さんは一瞬、宙を睨んでから首を振った。
「寂しいと思ったことは――ないな」
「なぜですか……!? 私だったら、間違いなく寂しいと感じてます……!」
 わからない。
 こんな状況で暮らしてきて、なぜ「寂しくない」とあっさり言えるのか、私にはまるでわからなかった。
 そんな私を、五行さんは我が侭を捏ねる子供を見るような目で見ていた。
「確かに俺には両親はいない。でも、祖父母が愛情を注いでくれたし、友人もいた。そりゃ口しがない大人たちからは白い目で見られたこともからかわれたこともあったけどさ、そんなのどうってことねえ。中学に入ってからだって、ちゃんと普通に友達付き合い出来たし、とやかく言われることもなくなったし。それに」
「それに?」
「高校に入ってからも同じさ。色々と遊んできたし、高校生活を面白おかしくしようと悪戯とかもやった。……それは中学からか。でも楽しかった。それは間違いない。ちゃんとダチもいるし――十分に幸せだ。これ以上望んだらバチ当たるよ」
 十分に幸せ――五行さんはそう言うけれど、果たしてそうだろうか。
 確かに、なんてことのない日常が幸せだとよく聞く。それに関して異論はない。平凡だと嘆く日々こそが、本当は幸せなのだと。
 だけど。
 五行さんは、その日常から離れてしまっていた。本来なら誰もが手に入れられる日常が、五行さんにはなかった。お爺様、お婆様の庇護を受けて、ようやくその日常を手に入れただけに過ぎない。
 それなのに。
 それなのに、この人はもう十分に手に入れましたよと笑うのか。屈託なく、胸を張って。
 私は言ってあげたかった。
 そんなことはない、と。あなたはもっと幸せになっていいんですよ――そう言いたかった。
 堪らなくなって――私は腕を伸ばし、手の平を五行さんの頬に当てた。せめて、温もりだけでも伝えたかった。
 もっと多くの幸せに巡り合えるように――。
「どうしたんだ、いきなり」
「何でも……ないです……!」
 手を当てたまま、私は頭を振った。
 虚を突かれたのだろう、五行さんは珍しく目を見開いて私を見つめた。
「何でもなくはないだろ。そんな泣きそうな顔して何言ってんだよ。全く、何でお前が泣くんだ」
「泣いてなんか、いませんっ」
 それは嘘だ。
 瞳がぼやけているのがわかるくらいだから。
 込み上げてくるものを押さえられそうになかった。ちょっとでも気を抜けば、たちまち涙が溢れてくるのは間違いなかった。
 でも、それを五行さんに心配をかけたくはなかった。真っ赤な嘘だとまるわかりだとしても。
 そんな私を、五行さんはじっと見つめて――そして、フッと微笑んだ。
「俺は本当に幸せだな。こんな俺を、こんなに心配してくれる優しい女の子に出会えたんだから。飛鳥井、お前は本当に優しいな」
「違いっ、ます……。優しいのは五行さんの、ほうですっ……」
 そうだ、五行さんは優しい。こんな時にまで、私を気遣ってくれている。
 考えてみれば――五行さんは、ずっと優しかった。
 私がボーっとしてた時も、ノートを借りた時も相談を持ちかけた時も。
 普通なら逃げてしまうような重い話にも、躊躇わずに付き合ってくれた。何やかやとは言っていたけれど、最後まで真摯に向き会ってくれた。
 それだけじゃなくて、色々と動いてくれて、有効なアドバイスもくれた。一夜さんとうまく行っているのは、五行さんのおかげだ。
 デートの時だって下調べしてくれて、しっかりと私のことを見ていてくれた。だからこそのあのプレゼント。
 あのイルカのストラップは、本当に嬉しかった。ちゃんと今も使っている。
(この人は何でこんなにも……)
 優しくて強いのか。
 ご両親のことを乗り越えたからこそ得られた優しさなのか、元から備わっていた資質か。どちらなのかわからないけど、五行さんは優しくて、温かい。
「そういうところが優しいって言ってんだよ、飛鳥井」
 五行さんは微笑を浮かべると、私の頭を撫でた。
「五行さん……」
 気持ちがいい。
 頭を撫でられることが、こんなにも気持ちいいなんて。
 胸の中を、暖かなものが満たしていくのがわかる。
 優しくて温かくて、ギュッと抱き締めたくなるもの。
 それは――愛おしさ。
 五行さんが、愛おしかった。泣き言を言わず、辛くても真っ直ぐに顔を上げて歩く五行さんが愛おしかった。
(五行さん、あなたは言いましたよね)
 十分に幸せだから、これ以上望むことはバチが当たる、と。
 私はそうは思わない。
 五行さんは、もっともっと幸せになるべきだ。
 ――いや、違う。
 私が、五行さんに幸せになってほしいと願っている。
 傍で、幸せになるのを見たいと思っている。
(私の幸せを分けてあげられたら――)
 ……違う、それではいけない。そんなことをしても無意味だ。
 私ができること、それは。
(私が、あなたを幸せにしてもいいですか――)
 心から、そう思った。


BACKINDEXNEXT
創作小説の間に戻る
TOPに戻る