Simple Life
〜前途多難だけど洋々〜
8話

〜五行匠〜

 俺が一人暮らしをしているマンションの部屋に入ると、予想通り、みな好き勝手に部屋を物色し始めた。
「広〜。なにここ、こんな広い家に一人暮らし!?」
「うお、羨ましい……」
「まあ、一応3LDKだし。一人で住むには確かに広いわな」
「マジ!? もしかして、五行の家ってお金持ち!?」
「別に一人暮らしのためにここを宛がわれた訳じゃねえって。元々家族で住んでたんだけど、親が出ていって一人で暮らしてんだ。それだけのことだよ」
 俺は肩をすくめ、リビングを指差した。
「荷物は適当においてくれ。で、ここで勉強すっから、ここに座って」
「ほーい。あ、五行君、このスーパーの袋の中身、冷蔵庫に入れてもらえる? 後、小島君の持ってる箱も」
「いいけど。……食材? 何する気だよ」
「後でわかるわよ。とにかくお願いね。ああ、お菓子とかはこっちに頂戴」
「はいよ」
 受け取った袋の中身を冷蔵庫にどんどん放り込む。箱も入れるが、何が入ってるんだ、これ?
 入れ終え、キッチンからリビングに戻ると既に全員がリビングの机に陣取り、ノートや教科書、参考書を広げていた。
「早いな、準備が」
「そりゃ、少しでも多く勉強しないと。あたしホントにヤバいんだからっ」
 早くも教科書と睨めっこしている園崎が「がるるる」と噛みつきそうな勢いで言ってくる。
「園崎と同じー」
「俺も俺も」
「どんだけ成績まずいんだ、お前ら」
 赤点ギリギリとかじゃねえだろうな。まさか、飛鳥井も……。
「言っておくけど、違いますから」
「あ、そうですか」
 心外だと言いたげに軽く睨まれました。ま、こんくらい可愛いもんだ。
「ま、とにかくわからないところがあったら聞くから教えてよ。よろしくね」
「わかったわ」
「へいへい」
 それまでは俺も飛鳥井も手持ち無沙汰か。ま、差し入れのお茶でも飲んで時間を潰しますかね。
「なあ、飛鳥井、お前は何飲む……」
 言いかけ、俺は頬を引きつらせた。
 飛鳥井が……自分でも勉強してるー!?
「何やってんの、飛鳥井……?」
「何って、勉強してるだけよ?」
「うえ? 試験勉強かよ」
 信じられん。自主的に勉強するなんて。
「五行さん、まさかしないの?」
「するわけねえだろ。今までしたことなんてねえよ」
 試験勉強なんて、考えただけで蕁麻疹が出るわ。知恵熱が発症するわい。
「ええ!? い、一度も?」
「ああ。やったことないよ」
「それで、あの成績が取れるの……?」
 飛鳥井が目を丸くして――ほかの連中も同じ顔をしてるし。
「さすが五行……。想像の上を行く男」
「先生たちが頭抱えるのがわかる気がする……」
「言いたい放題だな、おい」
 口をへの字に曲げて睨んでみるが、「だって、ねえ?」とばかりに顔を見合わせて首かしげてやがるし。
 ……覚えとけよ、お前ら?

 そんな前座な会話がありつつ、勉強会がスタートしたわけだけれど――。
 以下、そのときの会話(一部抜粋)。
「な、五行、係り結びって、何?」
「はあ!? それ基本中の基本だぞ!? 何で知らねえんだよ! 中学で習ったろ!」
「だって俺、古典苦手だもん」
 口を尖らす松山。可愛くねからやめろ。意味もなくど突きたくなるから。
「じゃあ何で文系に進んでんだよ!? 古典は必修だぞ!」
「数学がより嫌いだから」
「アホかー!!」

「ね、ね。明日香。これってさ、どう解くの?」
「ああ、これは……絵梨菜、それ違うわ。――ここでXにy+3を代入するのよ」
「あ、そっか。そうすれば解が導き出されるのか」
「ええ。代入法よりも差分法のほうがわかりやすいかも知れないわね」
「なるほど〜」

「日本史と世界史、どちらが簡単?」
「おい、それはセンターとかの場合だろ。3年は基本世界史だろうが」
「それも視野に入れないとヤバいんだって。俺、センター受けるし。な? どっちが簡単?」
「日本史は日本のことだけを深くやるのに対して、世界史は世界全体を広く浅くやる。どっちを取るかは好みだよ。好きなほうを取れ。ただし」
「ただし?」
 俺はにっこり笑って小島を指差した。
「取り敢えず、今は世界のことだけ考えろ! お前、世界史赤点ギリギリなんだろ!」
「あははは、知ってたのか」
「笑い事じゃねえっての」
「大丈夫さ。試験までもう少し。……どっちにしろサイは投げられたんだ。もう後戻りはできねえ」
「俺は匙を投げてえよ……」

「だから、四段活用は古典だけのことだから、この表を丸暗記するしかねえんだよ。とは言っても、骨格さえ理解できれば丸暗記いらないけど」
「うえ〜。これ全部〜?」
 げんなりとする松山に俺はため息を吐きつつ、トントンと活用表を叩いた。
「こんなの基礎の基礎だってのよ。ま、後は裏技としてだな、助詞の「て」の上は連用形になり、「と」の上は終止形、「ど」の上は已然形となる法則があったりするから、覚えとくとちょっと便利」
 これ、本当ですよ?
「へえ?」
「形容詞の『ク活用』と『シク活用』の見分け方はな、語尾に『なる』を付ければいい。例えば『青し』だったら、『青くなる』でク活用、『虚し』だったら『虚しくなる』でシク活用――てな具合にな」
「おお」
「感心してないで覚えろ。こういったコツを掴んじゃえばいいんだよ、結局」
 しかし、3年でこんな基本やってて大丈夫なのか……。
 匙どころか、試験全てを丸投げしたい……。

 二時間ほど過ぎた辺りで、園崎が勉強道具一式を片付け出した。
「もう終わる気か?」
「まさか。まだまだやるわよ。でも、そろそろお腹空いたでしょ? お昼ご飯にしようと思って。どう?」
「そんな時間か。そうだな、一旦終わりにして、飯にするか」
 松山と小島に同意を求めると、一も二もなく頷いたので男子はオッケー。残るは飛鳥井だが――。
「私も賛成。お昼にしましょう」
 飛鳥井も了承。これで満場一致で昼飯だ。
「で、何を食う? 簡単にマックか何かで済ますか」
 あまり金もかかんなくていいと思って提案してみたが、園崎がチッチッチと人差し指を振っていた。
「何だよ?」
「わかってないなあ。何のために色々と食材買い込んできたと思ってんの? じゃ、準備するからキッチン借りるね。――明日香」
「ええ」
 園崎に促されて飛鳥井も立ち上がり、キッチンへと向かう。
 まさかと思うが、いやしかし……。
「いいけど……お前らが作るのか!?」
「そうよー。大丈夫、美味しいお昼、作って上げるからさ」
「そうか、わかった」
 俺は戸棚まで行き、奥から薬箱を引っ張り出してテーブルに置いた。
 そして、目的の物を取り出す。
「……五行くーん、何かなー、それ」
 笑顔のままで、こめかみをピクピクさせている園崎に、俺はそれ――錠剤の入ったビンを目で示した。
「見てわからんか? 胃薬だ」
 ――バンッ!
 直後、チョコレートの箱が俺の顔面に直撃した。
 ……つーか、今投げたの、飛鳥井……。

「ずえったい美味しいって言わせてやる!」とやけに張り切っている園崎と、「覚悟しておきなさい」とやけに怖いことを呟いていた飛鳥井が、キッチンで右に左にと動き回るのを見物しつつも、慣れないキッチンで悪戦苦闘している二人にそのまま知らん顔しているわけにも行かず、歩み寄った。
「……単刀直入に訊こう。何が必要だ?」
「むう。調味料とか、どこ?」
「それ、こっち」
「お皿は?」
「そっちの戸棚」
 質問に答えつつ、キッチンカウンターに置かれた数々の食材に目を走らせる。
「何か色々あるけど……、何作る気だ?」
「秘密だってば。それにしても、調味料の類が少ないなあ。もっと買っておきなさいよ」
「普通にあるだろ」
「オリーブオイルとかオイスターソースとか豆板醤とかないじゃない」
「男の一人暮らしに、過剰な期待をするなっ」
 そんなもん、料理好きの奴でもなきゃ持ってねえ!
「まあ、最低限の物は揃ってるから大丈夫か。じゃ、急ごうかな」
 園崎は包丁片手に玉葱を切り始める。その手つき、言うだけあって、なかなか滑らかだったりする。
「五行さん、お皿って、これだけかしら?」
「ん? ああ、そこにあるだけだ。……足りないか?」
 戸棚の中を覗き込んでいる飛鳥井に訪ねると、一瞬考え込んだが小さく頷いた。
「いいえ、何とかなると思うわ。……でも、随分少ないのね」
「だから一人暮らしなんだから、仕方ないだろーが」
 たくさんありすぎても邪魔なんだよ。
「一人暮らし……。でも、ご家族の……」
「あん?」
「いいえ、何でもないわ。それじゃ、私も」
 何だかぼそっと呟いた気がしたんだけど、気のせいか。首を傾げているうちに、飛鳥井もさっさと料理に取り掛かり始めた。
 ――なら、俺の手伝いもこれまでかな。後は二人のお手並み拝見と行こう。
 何かあったら声をかけるように伝え、野郎二人がボケーと待っているリビングへと引き返した。
 さて、どんなものが出来上がりますやら。
 楽しみのような、不安なような。

 そうして、出来上がった料理がテーブルに並べられた。
 牛肉の香草焼き、里芋のコロッケ、シーフードとフルーツのサラダ、オニオングラタンスープにアサリのパスタだった。
「おおおっ! 何か見た目は豪華だし美味そう!」
「失礼ね! ちゃんと美味しいわよっ」
「五行さん、文句あるなら食べなくてもいいのだけれど?」
 にこっと笑う飛鳥井の背後に吹き荒ぶブリザード。
「すみません、謹んで頂きます」

 ――食べた料理はどれも美味かった。
「うむう、本当に美味いな。飛鳥井、園崎、お前らいい食堂のオバちゃんになれるよ」
「なぜ食堂なの!?」
「お嫁さんとお言い!」
 そんなバカなやり取りがあったけど。
 みなで笑いながら食うメシは美味い。


〜飛鳥井明日香〜

「五行さん、申し訳ないけれど、お手洗いはどちらかしら」
 立ち上がりながら訊くと、五行さんは廊下へ続くドアを指差した。
「廊下に出て、左側の手前の扉。間違っても右奥の部屋のドアは開けるなよ?」
「ほほう? 何か開けられてまずいものでも仕舞ってんのか?」
「違えよ。右奥は俺の部屋なんだよ」
「そうなんだ。じゃ、他は?」
 プライベートなこと訊いているけれど、いいのかしら?
 少し心配になったが、五行さんは気にもしていないらしい。
「他って。俺の部屋の前が書斎になってる。右の手前の部屋は両親の部屋だった場所」
「大丈夫。他のドアを開けたりする恥知らずなことはしないから」
「俺の部屋開けなきゃいいさ」
「ふふ。足の踏み場もないのかしらね」
 そんな軽口を叩き、私は廊下に出、扉を静かに閉めた。
「お手洗いはここね」
 五行さんの説明どおりのドアを開け、中が間違ってないことを確かめてから用と手洗いを済ませ、再び廊下に出た。
 シン、と静まり返った廊下。防音設備がしっかりしているのか、皆の声も殆ど聞こえてこない。
 何だか、急に一人で取り残された感覚に陥った。
 そんなはずはないのに。
「………っ」
 首を振ってそれを振り払い、ご両親の部屋の前を通り過ぎかけて――ピタリと足を止めた。
 五行さんのご両親の部屋。
 そう認識した時、この家に対する幾つもの疑問が浮かび上がった。
 それは――なぜ、この家には生活用品が極端に少ないのか、ということだった。
 私は最初、ご両親は単身赴任か何かで五行さんとは別に暮らしているのだと思っていた。でも、料理をしていてそれが当てはまらないと気が付いた。
 なぜなら。
 ストックしてある食器類の数が、やけに少なかったから。
 単身赴任で引っ越したとしても、皿やトイレットペーパーとかの生活用品は赴任先で買い揃えるものではないだろうか。わざわざ自宅から持っていくとは到底思えない。
 それなのに、この家には必要最低限の食器しか置いていなかった。事実、お皿やグラスが足りずに、念のためにと買ってきた紙皿と紙コップを使ったくらいなのだから。
 それに、他にも理由はある。
 五行さんがご両親のことを言う時、使う言葉はどれも過去形。
 その上、一人暮らしだと言った際、五行さんはなんと言った?
『親が出ていって、一人暮らし』――そう言ったのだ。その時は勝手に単身赴任か何かと思っていたから変だとは思わなかったけれど、冷静になって考えてみれば、これはとても妙な言い方だ。
 普通であれば「出ていって」などとは言わないだろう。親元から離れて一人暮らし、とかなら理解できるけれど、この言い方ではまるで――。
 それともう一つ。
 先程の部屋の説明で、五行さんは「両親の部屋だった場所」と。
 ――だった?
なぜこうまで過去形で言うのだろう? 単純に考えれば「両親の部屋」で済む話。それをわざわざ「だった」という言い方をする理由は――?
「ごめんなさい」
 私は五行さんに申し訳なく思いながら、心に沸き上がった衝動を押さえることはできそうになかった。
小さく謝っておいて、ゆっくりとご両親の部屋のドアノブに手を描け、音がしないように静かに開けた。
「――――!」
 目の前の光景に、息を飲んだ。
 そこには、何もなかった。
 そう何も。
 それは比喩ではない。本当に何もないのだ。空っぽの和室。
 引っ越した後、もしくは入居する前のように家具は何一つとしてない。
(何、これ……。どういうこと?)
 最早、単身赴任だとは微塵も思えなかった。家具を全て持っていく理由など、何一つとしてない。もしかして、ご両親は鬼籍に入ってしまっているのかとも思ったが、それはそれでまたおかしいことになる。
 この家には仏壇、もしくはそれに準ずる物は見当たらなかったのだから。家具を全て処分する理由にもならない。
 百歩譲って仏壇とかを置かないとしても、写真の一枚も飾ってないというのは、いくらなんでもおかしい。
「………」
 私は踵を返すと、書斎のドアを開けた。もう、倫理観とかはどこかへ行っていた。それよりも、五行さんのことを知りたいという欲求のほうがずっと強かった。
 そこにも仏壇に当たるものはなく、あるのは書斎に相応しく幾つもの本棚と、文机が一つ。それだけだった。
(後は五行さんの私室だけど……)
 さすがに、そこを開けるのは躊躇われた。いくらなんでも、自室を開けてしまうのはまずい。……既にマナー違反なのは自覚しているけれども。
ただ、今までの行動で得られたことは。
 五行さんとご両親の間には、何か、深くて暗い事情があるらしいということ。
 そしてもう一つ。
(私……五行さんのこと、何も知らない)
 その事実だった。
 一人暮らしをしていたことも、家族構成も、何も知らない。
 比較的親しい松山さんや小島さんが彼が一人暮らしであることを知らなかった事実を鑑みれば、私が知らずとも仕方がないと言えるけれど、彼のプライベートを何一つとして知らないことが、何故か悲しかった。
「戻りましょう……」
 これ以上遅いと変に思われるかも知れない。
 皆が待つリビングへと歩きながら、私は、この家が妙に寒々しく見えた。

 戻った私は皆に別に不審に思われることなく、輪に加わることが出来た。
 けれど。
 その後の私は、はっきり言って上の空だった。
 食事の後片付けの時も、勉強を教えている時も、3時の休憩で美味しいと評判のケーキを食べている時も。
 頭を占めていたのは、ただ一つのことだけ。
 五行さんのこと。
 私は――彼のことが、気になって仕方がなかった。

 時間も夕方を過ぎ、さすがにお暇させてもらうことになった私たちはゴミなどをきっちり片付けてから、五行さんの家を後にした。
 その帰り道、談笑する絵理菜や松山さんたちの会話を右から左へと聞き流し、まだ見えているマンションを見上げた。
(五行さんは、あの広い家に一人きり……)
 寂しくはないのだろうか。
 今日は皆で騒いで、楽しかった。宴は楽しければ楽しいほど、終わった後の寂寥感は大きくなる。
 一人家に残らざるを得ない五行さんは、殊更に感じているのではないだろうか――。
(ご両親がいれば、そんなことはないのだろうけど)
 しかし、五行さんにはご両親がいない。事情があって離れているのか、鬼籍に入られているのか、それともまた別の事情があるのか――どれが正しいのかわからないけど、確実なことは今現在、五行さんは独りだということ。
 ――知りたい、と切実に思った。
 五行さんのことが知りたい。ご両親のことが知りたい。
 プライベートに関することなのは、百も承知だ。それでも、私は五行さんの事情が知りたかった。
 彼は私の家のことを知っているのだから。
(そうです、五行さんは私の家庭の事情知っているのに、私が彼の家庭のことを知らないのは不公平です)
 だから、私にはそれを知る権利がある――無茶苦茶な論理なのは重々わかっている。だが、それを踏まえてでも知りたい。
 私はもう一度、マンションを見上げた。
 チャンスは今。今日を逃したら、間違いなく二度と訊く日は訪れない。漠然とだが、当たっている予感があった。
 今日しかない、と。
 決意を固めた私は足を止め、前を行く絵梨菜たちに声をかけた。
「どうしたの、明日香?」
 不思議そうな顔をする絵梨菜に、私は告げた。
 忘れ物を取りに行く――と。
「忘れ物?」
「ええ。だから戻るわ、五行さんの所に」
 すると、絵梨菜は「ふ〜ん」とじっと私の顔を見て、小さく笑った。
「何?」
「何でも。わかった、行ってらっしゃい。待ってようか?」
「いいえ、帰って構わないわ。時間がかかるかも知れないし」
 話によっては、長くかかる可能性も十分あるから。
「なら先に帰ってるね。五行君によろしく」
「ええ」
 軽く頷き、私はくるりと向きを変え、来た道を戻り始めた。
「うん? 飛鳥井さん、どうしたんだ?」
「忘れ物だってさ。あたしたちは先に帰っていいってさ」
「そうなのか。じゃあな、飛鳥井さん」
「また明日ー」
 背に挨拶を受けながら、私は足早にマンションへ急いだ。


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