Simple Life
〜前途多難、だけど洋々〜
1話

〜飛鳥井明日香〜

「…………」
 私は――こっそりとため息をついた。
 ……と。いけない。今は授業中、こちらに集中しなくては。
 いくら悩みがあるからと言って先生の話を聞き流してしまうなんて、あるまじきこと。
 だけど――。
(どうすればいいのかしら……)
 あの時の行動は間違っていないと断言できる。それは間違いない、間違いないのだけれど。
 元々あったあの子との溝が、さらに深く大きく開いてしまったような気がする。
(あの子……前から私のことが苦手みたいだし……)
 自分自身は苦手などではないし、少し擦れた感のあるあの子が可愛い。お姉様たちだってそうだろう。
 家族なのだから、もっと親しくしたい。そう思っているのに上手く行かない。だからこそ、一年でも有名な千秋君にだって声をかけてみたというのに。
 彼の――弟のことをもっと知る為にも。
「はあ……」
 私はもう一度ため息をついて、小さく首を振った。

 しばらく、私は眼前で振られている手に気が付かなかった。
「おーい。……おい、飛鳥井ー?」
「え?」
 急に呼ばれて目をぱちくりとさせる。
「ようやく気が付いたか。大丈夫か、お前」
「どういう意味? 大丈夫に決まってるわ」
 眉をひそめる私に対して、少し呆れた顔をしているのはクラスメイトの五行匠(ごぎょう・たくみ)さんだった。殆ど男子とは会話しない私にしては珍しいくらいに、親しいほうだと思う。
 だが、五行さんはさらに呆れた表情を作り、両手を広げた。
「なら言わせてもらうが。とっくのとうに授業、終わってるんだが」
「え?」
「現代文の教科書とノート出したままで言われても説得力ないぞ」
「…………」
 教室内を見回せば、誰もいない。アレ、と不思議に思っていると、それが表情に出たらしい。五行さんが今度は肩をすくめた。
「次は化学で理科室に移動。だから誰もいないの」
「あ……」
 そうだった。
 今日の四時間目は化学。金属ナトリウムの実験を行うということで、理科室に移動だった。
 それをすっかり忘れていた。
「五行さんは移動しないの?」
「俺は日直でな。最後に教室の戸締りしなきゃならないんだ」
「ごめんなさい。すぐに準備するわ」
 私は急いで化学の準備に取り掛かる。現代文関連の教材を仕舞い、返す刀で化学の教材を手に持つ。
「終わったわ」
「おっけ。なら行こうか」
 五行さんも前の机に置いていた化学の教科書とノートを持つと、私と一緒に教室を出た。
 窓の鍵とか、貴重品の忘れ物とかは私が思考の海に潜っている間に終わらせていたのだろう。
 きっちり前と後ろのドアを閉め、私と五行さんは連れ立って理科室へと向かった。
「本当にごめんなさい。ご迷惑おかけしました」
 道すがら、五行さんに軽く頭を下げる。授業を聞き流してしまうどころか移動のことも失念してしまうなんて。
 風紀委員としても恥ずかしいにも程がある。
「いやいやいや。気にするほどもんでもねえだろ。むしろ俺としては、飛鳥井の意外な一面が見れて得した気分だね」
 ククッと笑う五行さん。でもその笑い方はやめてほしい。何だがいやらしい。
「人を笑うなんていい趣味とはいえませんよ」
「趣味じゃねえよ。完全無欠な飛鳥井明日香が見せた、間抜け面。写メにでも撮って現像したら高く売れたかもな」
 特にMっ気のある連中に、といかにも残念そうに呟く。
「その考えがよくないと言っているのですけど」
 私は本日三度目のため息をついた。とはいえ、これは呆れのため息。二回目までのものとは意味合いが異なる。
「え〜? 少しくらい遊ばせろよ。別に本気じゃないんだしさ」
「そういう遊びは感心しないわ」
「真面目だねえ、飛鳥井は」
 ケラケラと笑う五行さん。
(全く……)
 このいかにも人を食ったような考えをする五行匠が、なぜ特進クラスにいるのか、わからなくなるときがある。
 授業も一日中寝ているときがあるし、早弁しているときすらあった(今時する人がいるとは思わなかった)。まともにしていれば、そう悪くはないと思うのだけれど、あまりにも常識外れな行動のせいで珍獣扱い(特に女子から)されているほどだ。
 そんな人だから、五行さんの成績は悪いのかと思いきや、かなりいい――どころかトップクラス。どうしてこんな好成績が取れるのか、先生たちも首を傾げているくらいだし。
 それに、風紀委員として生徒から少なからず疎ましがられているこの私に、気にする様子もなく話しかけてくるのはこの人くらい。クラスの男子すら敬遠気味な私に。
 性格がキツメなのも一因だということは自覚しているのだけれど。
「でもさ、俺ら文系なのに化学があるって変じゃねえか?」
「それは仕方ないでしょう。化学といっても、理系の本格的な化学と比べれば基礎の基礎だわ」
「正論ですなあ」
 確かに五行さんの言うことにも一理あるけれども。特進クラスなんだから、それは諦めるしかないと思う。
 それに、理系からすれば、「何で授業に国語があるんだ」ということと同義だろう。
「ところで飛鳥井さんや」
「……なんですか」
 急にさん付けで呼ばれ、訝しく思いながら顔を向けると、五行さんは至極真面目な顔で何かを口に咥え、ニヤッと笑った。
「吸うか?」
「え――?」
 いきなりのことに驚きつつ凝視すると、その口元にあるのは細長い紙製の筒。つまりタバコだった。
「ちょ、何やって――!」
 頬を強張らせる私のことなどお構いなしに、五行さんは「フー」とタバコの煙をくゆらせた。
「何を考えているんですかっ!?」
 私は周りに人がいないことに感謝し、急いでタバコを五行さんの口から奪い取った。そして窓を開けたところで気が付いた。
「熱く……ない?」
 そう。そのタバコは火が付いているのにも関わらず熱くなかった。熱くないどころか、よくよく見れば火の付いているはずの部分が赤く見えているだけだった。
「これ……偽物!?」
 念のため、火先に触れてみるが、やはり熱くない。硬質の感触、プラスチック。
 唖然としながら五行さんを見ると、してやったり、という表情だった。
「その通り! アハハハ、騙されたな、飛鳥井! それ、真っ赤な偽物! 玩具だよ」
 心底楽しいというふうな五行さん。私は騙された怒りよりも、この精巧なタバコの玩具の出来に感心していた。
「よく出来てますね、これ。本当に火が付いてるみたい。あ、でも、煙は?」
「ああ、それ、ベビーパウダーだよ。火先と本体の隙間から上手く出るようになってるんだ。粒子が細かいから、本物の煙みたいだったろ?」
 得意げに話すクラスメイトに、私はにっこりと微笑み。
「確かに、見事に騙されましたし。……でも没収」
「げっ!?」
 得意げな表情から一瞬で頬を引き攣らせた表情へとチェンジした五行さんを尻目に、私はタバコの玩具をポケットへ仕舞った。
「わ、ちょ、ちょっと待て! それ探すの苦労したんだぞ!? コンビニを何店も回ってようやく手に入れたのに! しかも意外と高くて税込み398円!」
「そんなの知りません。風紀委員として没収です」
 ちょっと厳しいかな、とも思ったけれど、やっぱり没収だ。……決して、騙された恨みで厳しくしているわけじゃないので、誤解しないように。
 これで少しは懲りてくれればいいけども。
「ぬあーっ! やっぱりシガレットチョコにしておけばよかったかー!?」
 ……懲りてなかった。
「……もう、勝手にやっててくださいっ」
 バカと天才は紙一重。
 五行さんほどそれが似合う人はいないと、心から思った。

 その日の放課後。
 私は幾分後ろめたくなりながら、再び五行さんに声をかけていた。
「あの五行さん?」
「んあ? 飛鳥井か、どうしたよ」
 帰り支度の最中だったのを中断させてしまったことを少々申し訳なく思ったが、仕方がない。彼に頼みがあるのだから。
「申し訳ないのだけれど。現代文のノート、貸してもらえないかしら。ほら、あの……」
 そこまで言って私は言い淀んだ。
 ただノートを借りるだけなら別に五行さんに借りる必要ない。友人に借りればいい。けれど、ボーっとして板書を書き逃した、と言うには少々抵抗がある。
 その点、五行さんなら既に知られているので、少なくともこれ以上の恥をかくことはない。ただ、彼が板書をノートに取っているか、という不安はあるけれど。
「構わんよ。しかし珍しいな。飛鳥井がノートを借りるってのは」
 どこまで本気で言っているのか知る由もないが、五行さんはすぐにノートを渡してくれた。
「ありがとう。明日必ず返すから」
「ういうい。じゃあな、飛鳥井」
「さようなら、五行さん」
 その場を離れた私の耳に。クラスメートとの会話が入ってきた。
『お前、飛鳥井さんと仲いいの?』
『クラスメートだぞ? ノートの貸し借りくらいするだろうが』
『そっかなあ……』
『それよりもだな。ホントに片瀬にコクる気かよ?』
『おうよ! 俺が彼女の彼氏になってやる!』
『アホか。そう言って、一体何人の奴らが沈んだかな』
『ええい、諦められるか!』
『はいはい。これでまた、片瀬の撃墜数が一人増えるわけか。玉砕イベント、頑張ってこい。骨は打ち捨てといてやる』
『ひどっ! お前までそんなこと言うの!? みんなに似たようなこと言われるんだけど……』
『当たり前だ。諦めろよ、片瀬のことは。もっと自分に合った女の子捜せよ』
『あうう……』
 何を話してるんだか。
 私はノートを手早く鞄に詰め込んだ。
 だがその時。
 脳裏に閃くものがあった。


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