Simple Life
〜優しいぬくもり〜
6話
〜五行匠〜
夕日が照らす中、遊び終えた俺は、明日香を待っていた。
明日香を待つのはいつものこと。それに、あの長い髪を乾かすのには時間が掛かるだろう。
「もう少し掛かるか」
腕時計を確認して、まだ出てきはしないだろうと当たりを付ける。
手持ち無沙汰で待っているのははっきり言ってつまらないが、それが自分の彼女だと思うとその時間すらデートだと思えてしまうから何とも不思議な感じだ。
少し外れて立っている俺の横を、カップル、友人同士、家族連れ……様々な人たちがのんびりと駅へ向かって歩いていく。
その表情は誰もが楽しげで、どこか寂しそうだった。
「楽しい時間はいつまでも続いてほしいと思うからなあ」
祭りの後のさみしさみたいなもんなんだろう。
だからこそ、祭りは心底楽しむべきだと。
「デートも祭りみたいなものなのかな」
――なんとなく、明日香と別れるときは一抹の寂しさ、別れ難さみたいなものを感じるから、あながち外れではないと思う。
「まだか」
そろそろ出てきてもいい頃だと思い、顔を出入り口に向けると、丁度明日香が小走りにやってくるところだった。
「ごめんなさい。遅れたわね」
「気にしない気にしない。女の子は着替えとか遅いのは常識だし」
特に明日香はロングヘアだから、乾かすのにも一苦労だろう。
「そう言ってもらえると助かるわ」
「あのな、5分や10分遅れたくらいでガタガタ言いやしないって。どんだけ器が小っちゃいんだよ」
「ふふ、そうね。匠さんはそんなことで怒ったりしないわよね」
「わかってんじゃないか」
まるで、そんなことはお見通し――とでも言いたげな明日香に内心苦笑しつつ、駅へと歩き出した。
歩き出すと同時に、明日香がスッと近づいてきて優しく手を握ってきた。
「おい?」
「……嫌?」
「なわけないだろ」
そんな不安そうな目で見るなって! 単に気恥ずかしかったんだよ。
俺たちはそのまま、手を繋いで歩いていった。
〜飛鳥井明日香〜
手を繋いだまま私と匠さんは電車に乗り、席に腰掛けた。時間的なせいなのか、車内は空いていて、向かいに優しそうな老夫婦がいる以外は、ぽつぽつといるだけだった。
(それにしても、楽しかった)
あんなにはしゃいだのは、本当に久し振りだ。プール自体が数年ぶりというのもあるかも知れないけれど。
やはり、匠さんと一緒だったから、というのが一番大きいのは間違いない。
「ふふふ」
「何だよ、いきなり?」
「何でもないわ」
「?」
手から伝わるぬくもりに思わず笑みがこぼれてしまう。温かな気持ちが身体を巡っている。
心も温かい。
「……ふあ」
規則正しく揺れる電車に加え、心地いい疲労感と匠さんから伝わる温もりと安心感。
それらが合わさって、眠気が襲ってきた。
(匠さんの隣なら――)
何も心配はいらない。
そう思った途端、意識がストン、と落ちていくのを感じ――私はそのまま意識を手放した。
しっかりと手を繋いだままで。
〜五行匠〜
コトン、と肩に掛かる重みにそちらを見れば、明日香が頭を肩にもたせ掛けて寝ていた。
「寝ちゃったのか。遊び疲れたんだな」
あどけない顔ですやすや寝ている。
こんな表情、家族くらいしか見ていないだろう。
なのに、俺だけには見せてくれている。それは、それだけ俺には心を許してくれているということなんだろう。
そう考えると、自然と顔が綻んでくる。明日香が愛おしい。
……全く。俺も明日香に相当いかれてるな。
内心苦笑したとき、視線を感じた。
「?」
視線を感じたほうへ顔を向けると、優しげな表情の老夫婦がニコニコと俺たちを見ていた。
「……はは」
多少の気恥ずかしさはあったが、変に慌てる必要もない。俺も老夫婦に会釈しながら笑いかけ、明日香と繋いだままの手を上げてみせた。
俺と彼女はこんなにも仲がいいですよ、と。
それを見て、老夫婦はさらに目尻に皺を深くして微笑んでくれた。
たったそれだけのことだけど。
とても心が温かくなった。
〜飛鳥井明日香〜
眠りから覚めると、私は匠さんに背負われていた。
(……なぜ?)
だが、その疑問はぐに解けた。
電車内で眠ってしまったことを思い出したから。
私はそのまま眠り続け――匠さんは駅に着いた後、私を背負ってくれたのだろう。起こせばいいのに、何も言わないところが匠さんらしい。
声をかけて降りようかとも思ったけど――そのまま匠さんの背にこの身を預けることにした。
(……優しい背中)
この優しくも逞しい背中に身体を委ね、スッと目を閉じる。
それは心をゆっくりと幸福で満たしてくれた。
そんな幸福を堪能していると、不意に匠さんが立ち止まり困惑しているのが感じ取れた。
目を開けてみれば、辺りはよく見知った風景。
「あれ? 確かこっちだったと思うんだけど……。どこかで間違ったか?」
キョロキョロと辺りを見回す匠さんに、私はスッと腕を伸ばして正しい道を指し示した。
「その角を右。それから二本目の道をまた右。そうしたら後は真っ直ぐよ」
「狸寝入りとは趣味が悪いな、明日香」
「失礼ね。匠さんに背負われているのが心地好かったから、堪能しているだけだわ」
匠さんが背中越しに視線を投げてくるけど、私はにっこり笑って見返した。
「……ったく」
苦笑する気配。
それでも匠さんは降りろとは一言も言わなかった。ごくごく当然と言わんばかりに私を背負ったまま、歩いていく。
私も降りるとは言わず、そのまま背負われ続けた。
それが自然に思えたから。
しばらくすると自宅の門に差し掛かった。
「ここよ」
「ここ? ……大豪邸じゃねえかよ」
口元を引き攣らせる匠さん。私は複雑な思いを抱きつつ、背から降りて腰に巻かれたシャツを匠さんに渡した。
きっと、私のスカートの中が見えないように、との配慮だろう。
この辺は本当に優しいんだから、匠さんは。
「ありがとう、匠さん」
「んなことはいいけどよ。ここが明日香の家か、しかしなんて家だ。昔の武家屋敷かよ」
「そんなに言う必要のない家よ」
「よく言うぜ。ここに来るまでの塀。全部お前の家の敷地だろ」
呆れを含んだ声で苦笑された。
「そうだけど、別に私が建てたわけじゃないもの」
「当然だろ。旧家のお嬢様だってのは知ってたけど、ここまでとは……。もしかして馬飼ってたり、番所が付いていたりしない?」
「しません!」
何を言っているのやら。
匠さんのからかい(そうに決まってる)を即座に否定する。
しかし、匠さんは私の返答など予想範囲内だったようで、「わはは」と笑うだけだった。
「もう」
軽くため息をついたところで、ポンと頭に手が乗せられた。
「悪かったな。今日は楽しかったんで、ちょっと悪乗りしちまった」
「……もう。素直にそう言って。でも、私も本当に楽しかったわ」
家まで来たということは、これでデートは終わり。寂しさが身体中を駆け巡る。
別にこれで会えなくなるというわけでもないし、電話だってメールだってできるのだから寂しく思う必要なんかないといえばそうなのだろうけど、胸に去来するこの想いは消えようがない。
だから私は、この想いを上書きすることにした。
「匠さん、あのね」
「ん?」
これから自分の身に起こることなど露知らず、こちらに顔を向けた匠さんに私は。
匠さんの腕に軽く手を添えて引っ張り。
近づいた匠さんの顔に背伸びして。
唇を、重ね合わせたのだった。
〜五行匠〜
俺は驚愕した。
「んんー!?」
明日香の唇が俺の唇にいぃぃ!?
早い話がキスしてるううぅぅっ!?
たっぷり十秒は経ってから、ようやく明日香は口を離し――頬を染めながらニッコリと笑った。
「……キス、しちゃったわね」
「お、おおおお前! いきなり何を!?」
「何って、キス」
「言われんでもわかってるわい!」
わざと言ってるだろ、明日香ー!?
吼えそうになるのを堪え、大きく深呼吸。
……よし、少しは落ち着いた。
「お前なあ……。さすがに驚くぞ、こんなことされたら!?」
「したかったから。それとも私とするの、嫌だった?」
「んなわけあるかっ。俺が言いたいのはな、女の子からするもんじゃないと思う、特に初めての場合!」
こういうのは、まず男からするもんじゃないかね、明日香さん!?
男である俺の立場はどこ行っちゃうのさ!?
「それは偏見じゃないかしら。女の子だってしたいものよ。特に好きな男の子とは」
あっさりと明日香は言い、小さく微笑んでみせた。
……そうか、そういうこと言うか。
そっちがそう来るのなら、俺にだって考えがあるぞ?
俺だってなあ、お前ともっと触れ合いたいと思ってるんだからな? 先制攻撃はされたが、逆襲はこれから。年頃の男の子を舐めちゃいかんよ?
俺は明日香の手を掴むとグッと引き寄せて――有無を言わせずにその桜色の唇を奪った。
「んんー!?」
まさか今度は自分がキスされるとは思っていなかったのだろう。目を白黒させたが、すぐに身体から力が抜けるのがわかった。
「…………」
同じようにたっぷり十秒は経ってから顔を離し、ニッと笑ってやった。
「た、匠さん……」
「ふふん、どうよ。自分からするんじゃなくて、される気分は」
「恥ずかしいけど……ポーッとしちゃうわね」
明日香は顔を赤らめ、照れたのか俯きながら呟くように言った。
「実は、俺も少々恥ずかしい」
素直に本音を言い、明日香と二人して苦笑した。
「……やっぱり、いきなり過ぎたのかしらね」
「かもな」
しかも、明日香の家の前というシチュエーション。これで恥ずかしくないわけがない。
……明日香の家族に目撃されてたらどうしよう?
俺は明日香の頭をもう一度撫でると、家へ目をやってから小さく頷いた。
「それじゃもう帰るわ。いつまでもここでいちゃついてるわけにもいかねえし」
「いちゃついてって。もう、匠さんは……。でも、確かにここにいつまでもいたら変に思われるわね。それじゃ……またね」
「ああ、またな」
別れの挨拶を済まし、俺は明日香に背を向けて駅への道をゆっくりと戻り始めた。
背に明日香の視線を感じつつ角を曲がり、視界から外れたところでドンッと壁に寄り掛かった。
「――はあっ」
大きく息を吐く。
明日香の前じゃ平気を装って振舞っていたけど、ギリギリの状態だった。何せこっちはファーストキス。余裕を持てと言う方が無理がある。
「……全く。明日香にしろ片瀬にしろ、積極的な女の子が多いな」
千秋の奴もこんな感じで振り回されているんだろうか。
「今日は刺激が色々と多すぎた。夢に出てきそうだよ、ホント」
俺はやれやれと呟いた。
だから俺は。
明日香が家に入った途端顔を真っ赤にして倒れ、家族に変な顔をされたなんてことを知る由もなく。
知ったのはずっと後になってからのことだった。
〜了〜