Simple Life 
〜優しいぬくもり〜
1話

 〜飛鳥井明日香〜

 私はアイスティーのグラスをテーブルに置いて、深々とため息をついた。
「急に呼び出すから何事かと思えば……。『五行君とはちゃんと仲良く付き合ってる?』なんて、いきなりなんなの、絵梨菜」
 正面に座ってケーキをパクつく親友に、私は胡乱な目を向けた。
「いや、だってさ、二人とも初心っぽいから心配になっちゃったわけよ、世話好きおばさんとしてはさ」
「そんな心配されなくても、匠さんとはちゃんと付き合ってるわよっ」
 何が『世話好きおばさん』よ。単に面白がってるだけのくせに。
 だけど、絵梨菜は私の強気の発言に全く怯む様子もなく、逆に目を輝かせてきた。
「へえ〜。『匠さん』ね。名前で呼んでるんだ、感心感心」
「う……。そ、それは当たり前でしょう? お付き合いしてるんだからっ」
 墓穴を掘る形になってしまったが、名前で呼び合うのは恋人同士なら当然のこと。変に動揺する必要もない。
「そりゃあね。でも、明日香はともかくさ、五行君がよく名前で呼んでるね」
 絵梨菜は痛いところを突いてくる。
「今では、ね。でも、最初は私も匠さんもギクシャクしてしまって、大変だったのよ」
 私はため息をついた。
 そう。
 色々あって、私と匠さんはお付き合いを始めた――のはいいのだけれど、どちらも異性と付き合うのは初めてということもあって、まだ試行錯誤している感覚なのだ。
 名前で呼び合うというのもそう。
 付き合っているのだから名前で呼びたいと思い、匠さんに――当時はまだ「五行さん」だったけれど――そう告げたらあっさりと了承が帰ってきたので、早速名前で呼ぼうとしたのだけれど、いざとなったら声が出なかった。
 酸欠の金魚みたいに口がパクパクと動くだけで、言葉にならなかったのだ。
 匠さんはというと――やはり照れるらしく、苦笑いを浮かべて「いきなりは難しいな」と肩をすくめていた。
 仕方なく、慣れるまでは無理をしないということになって、少しずつ――電話で話したときとか、ちょっと会ったときとかに名前で呼ぶよう努力して――自然に呼べるようになったのは、ほんの数日前。
 名前を呼ぶのでさえこのあり様では、次のステップに進むのに、どれだけかかることやら。
「ふーん。じゃあさ、ちゃんとデートとかはしてんの? せっかく高校生活最後の夏休みなんだし、できるだけたくさんした方がいいよ?」
「わかってるわ。明後日にプールに行く約束してるもの」
「ほっほう、プールとは。何度目のデート?」
「デートの? だったら、まだ二回目だけど……」
 言うなれば、これが付き合い出して初めてのデートになる。本音を言えば、毎週どころか毎日でも会ってデートしたいくらいなのだけど、金銭的な制限もあるし時間もそんなに余裕はない。
「二回目でプール? プールって結構難易度高いのに。チャレンジャー」
「? どういう意味なの、絵梨菜」
 絵梨菜が感心したような呆れたような声で言うのを聞き咎め、私は訊き返した。
「んー? だってさ、プールに行くってことは水着になるでしょう」
「それはそうでしょう」
 服を着たままプールに入るはずもない。たまにシャツを水着に羽織っている人はいるけれど。
「当然露出度高いよね。だから付き合いが浅いと変に意識してぎこちなくなんのよ。女の子はスタイルとか水着が似合うかどうかとかを気にするし、男の子は男の子で期待とかするから」
「な、なるほど……」
 絵梨菜の言うことには一理ある。確かに付き合って間もない間柄で、下着と露出度が変わらない水着姿を披露するのは少々抵抗があるかもしれない。見せても平気なくらいの信頼がないと難しいのかも。
 もしくはそれだけ自信のあるスタイルかだ。
「ま、明日香なら大丈夫でしょ。他の連中が相手ならともかく、五行君だし」
 絵梨菜が私の身体を舐めるように見るので、思わず胸の前で両手をクロスさせてブロックする。
「変な目で見ないで。……恥ずかしいでしょ」
「別に恥ずかしがるようなスタイルしてないでしょうが。……全く、ああもよく食べるくせにそのスタイルを維持してるって、嫌味以外の何物でもないわね」
「それは私のせいじゃないわ」
 大食いは余計だ。
「羨ましいわー。五行君がそれ知ったら面白そうだけどねー」
「ちょ、ちょっと絵梨菜!? まさか匠さんに私のこと……」
 知られたくないことの一つだ。私が、普通の女の子よりも『少しだけよく食べる』ということは。
 匠さんのことだから気にしないと思うけれど、それでも乙女心としては恋人にはあまり知られたくはない。
「あはは。言ってない言ってない。安心しなさいって」
 手を振って笑う絵梨菜の言葉に、ほっと息をつく。
「それならいいわ」
「うーん、明日香も完璧に恋する乙女ねえ。だったら、ちゃんと五行君を満足させるような水着を着んのよ、わかった?」
「……どういう水着を着ろと言うのかしら、絵梨菜」
 いきなり何を言い出すかと思えば。それに、匠さんを「満足させる」水着って、一体……。
「だから、それなりにセクシーな奴よ。明日香だってがっかりされたくないでしょ? むしろ悩殺するくらいのつもりでやんなさい。その方が上手く行くから」
「悩殺て、絵梨菜……」
 一体、何を期待しているのだろう、この親友は。
「五行君、結構ニブチンだしね。それくらいのつもりで行かないとダメだと思うわけさ。だからよ」
「当たっているだけに、何も言い返せないわ……」
 私は呻いた。確かに匠さんは鈍い。男性特有の鈍感さとでも言うのだろうか、それが彼にはある。
 だから、こちらから頑張らないといけないのは、薄々感じているところだったりするのだけれど。
「ふふん。とにかく頑張んな。応援しているから」
「ありがとう、絵梨菜」
 私は微笑んでお礼を言った。
 ……実は、絵梨菜には匠さんと付き合い出したことは告げていない。しかし私たちと近いところにいたせいか、まだ誰にも言っていなかったのに、あっさりと「五行君と付き合っているでしょ」と見破られた。
 隠しても無駄だと思い首肯したけれど、ちゃんと理解してくれているらしく絵梨菜自身もまだ誰にも言ってないらしい。
 その辺はさすがに親友だと思う。
「いいって。ところでさ、話は変わるけど補習とかは大丈夫なの? 期末で赤点を一つでも取ってたら補習だし、受験対策の講習もあるじゃない。五行君との時間、作れてる?」
 ――絵梨菜の気遣いに、ああ、そういうことか、と納得する。
 何でいきなり呼び出してデート等のことを訊いてきたのか、これでわかった。もちろん興味自体あったのだろうけれど、私たちのデート事情を心配してくれたわけだ、この親友は。
「ありがとう、絵梨菜。でも大丈夫よ。その辺はしっかりと考えてあるから」
「そなの? だったらいいけど」
「ええ。期末前に匠さんにはちゃんと言い含めておいたから。『赤点取ったら承知しませんから』って」
 匠さんのことだ。突然思いついて、赤点を狙って取りかねない。「補習を一度受けてみたかったんだよ」とでも言い出して、本当に取るかもしれない。
 普通ならば、そんなことはまずしない。高校生活最後の夏休み。少しでもいい思い出を作ろうと思うはずだが、あの人にそんな常識は通用しない。
 だからこそ、それを見越して強く言っておいた。
『夏休みはできる限り私と一緒に過ごしてもらいますっ。いいですね!?』
 にっこりと、しかし拒否など一部たりとも許さないつもりで告げ、期末考査に臨んだ。
 その時の匠さんの顔が若干引き攣っていたのが気にかかったけれど。
 その結果――とんでもないことが起こったのだ。
「ああ、そういやそうだっけ。五行君、学年トップ取ったんだっけ」
 絵梨菜が何とも言えない微妙な表情を浮かべ、小さく首を振った。
「ええ。『久し振りに本気出したわー』なんて言っていたけれど。あれだけの成績が取れるなら、いつも出せばいいのにって、つくづく思ったわ」
 はあ、とため息と共に、先日掲示板に張り出された成績を思い出す。
 期末考査――現代文、古典、英語のライティングとリーディング、生物、化学、世界史、保健、数学――この9科目。
 もちろんこれは、文系である私や匠さん、絵梨菜にのみに当て嵌まる。理系であれば、古典の代わりに物理や数学(V・C)が増えたりするわけだけど。
 なんと、匠さんはこの九科目総合成績が898点。つまり――殆んど満点を取り、当然のことながら2位以下を大きく引き離して1位。
 削られた2点は何かと言えば、英語。英単語の問題を一問だけケアレスミスで間違えたらしい。
 順位を見て、私はさすがに呆れてしまった。一科目だけでも100点を取るのは至難の技だというのに、それをあっさり8科目。唯一間違えた英語ですら98点。
 この人の頭の中は一体どうなっているのだろうか。
 いくら強制的は発破をかけたからといって、ここまで凄い点を取られるともはや何も言えなくなってしまう。
 もう、呆れのため息が出るのが関の山だ。
「あはは。全く、とんでもない人を彼氏にしたもんだよねー、明日香?」
 ニヤニヤと面白がる絵梨菜を軽く睨む。
「言わないで。改めて思い知らされたんだから……」
 首を振り、グラスを口に持っていく。爽やかな甘みと苦味が広がっていくのが心地いい。
「はいはい。なら補習は問題ないわけだ。講習は? 出るの?」
「私は少しは出るつもり。匠さんは……出るわけないわよ」
「そりゃそうか」
 納得、と絵梨菜は頷く。
 まあそれは今度じっくり聞いてみるつもりだ。匠さんの進路は私自身の進路にも大きく影響するのだから。将来的にも。
 それからしばらくはデート向きの場所とか、美味しいランチのお店とかを教えてもらったところで、絵梨菜が立ち上がった。
「んじゃ、あたしはそろそろ。これから学校行って部活に出るから」
「え? もう引退したでしょう?」
 怪訝に思い、眉を顰めた。
 絵梨菜は最後の地区大会で敗退し、高校での陸上生活を終えた。「楽隠居よー」なんて笑っていたけれど、やっぱりまだ未練が……。
「あ、いっとくけど、未練とかじゃないからね。後輩に練習を見てほしいって頼まれてるから行くんだからね」
「本当に? 三年間、あんなに頑張ってきたんじゃない。だから――」
「そりゃさ、全国どころか県大会にすら出られなかったのは悔しショックだけど。それでも三年間やってきたことは無駄じゃないから。だから、大丈夫。それに、大学でも陸上続けるもの。高校での部活は終わったけれど、今度は大学での四年間がある。あたしの陸上生活はまだまだなのよ」
 疑問が顔に出ていたらしい。絵梨菜が強い意思を秘めた瞳で私を見つめ返してそう答えてくれるのを聞き、杞憂だったと胸を撫で下ろす。
 私が思っていた以上に、絵梨菜は強い心を持った子だった。
「そうだったの。早とちりしちゃったわ。ならお開きにしましょう」
「うん。それじゃあね」
「ええ」
 絵梨菜は代金を置くと足早に店を出ていった。その後ろ姿に迷いはなく、純粋に後輩のために部活に出るのだと、実感した。
 あれなら心配は無用だろう。
 私も清算してカフェを出ようかと思い始めたとき、携帯が鳴った。
 ディスプレイには大切な人の名前。急いで出ると、心をトクンと跳ねさせる声が聞こえてくる。
「もしもし、匠さん? え、今――ええ、そう。わかったわ、すぐに行くから待ってて。時間? 大丈夫よ、今日は何もないし、あったとしても、そちらを優先するから」
 そちらとは当然、匠さんのことだ。
 匠さんは、今外にいるから、時間があれば会おうという誘いの電話だった。
 勿論、断る理由などない。私は伝票を掴むとレジへと急いだ。
 自然と足取りは軽くなるし、ほおも緩んでくる。
 当然だろう。これから大好きな人と会えるのだから。
(ふふ。これもデートよね)
 街をカップルがブラブラするだけでもデートになる。プールデートの前哨戦としては丁度いいだろう。
 代金を支払い終え、私はできたての恋人、五行匠さんの元へと急ぐ。
 カフェを出てしばらく歩くと待ち合わせの場所が見え、一人の少年が立っているのが見えた。
 高めの身長、均整の取れた体格。何よりも特徴的なのは、離れたところからでもわかる、その飄々たる雰囲気。
 雲のように掴みどころがなく、それでいて春風のように優しく温かい人。
 ……何を言っているのだろう、私は。
 いくら匠さんに心底惚れているからといって、こうまで恥ずかしいことを思えるなんて。
 これが惚れた弱みというものだろうか。
 そんなことを思いながら匠さんの元へ行くと、彼は微笑みながら私を待っていてくれた。
「いきなり呼び出して悪かったな」
「いいえ。むしろ嬉しかったわ。こうして呼ばれるとちゃんとお付き合いしているんだなあって安心できるから」
 冗談めかして言うと、匠さんは「何だそりゃ?」と笑っていた。
「ふふ。それじゃあ行きましょうか。どこか予定はあるの?」
「いんや、全く。暇だったもんで電話してみただけさ。明日香こそ何かあればそっちに付き合うけど?」
 なるほど。でも、そこが嬉しく思う。「暇だったから」で思いつくのが私だったわけだから。
 それくらいの距離にはいるという証にもなる。
「そうね、なら――」
 あることを思いつき、私は少し悪戯っぽく微笑んで。
「買い物に付き合ってね」
「へ? あ――」
 しまったという顔をしたが、もう遅い。私は匠さんの手を握ってホールドし、逃げられないようにしてから歩き出した。
「ふふふ。楽しみね、買い物」
「ああああああっ」
 がっくりと肩を落とす匠さんの手を引きながら私は改めて思った。
 匠さんと過ごす時間は本当に楽しい。
 私は今、とても充実している――。



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