その日、高校生であったなら、存在する全員が意識するイベント。
 恋人がいるならば、より親密になれるように、愛情を込めて。
 恋人がいないならば、想い人にありったけの気持ちを込めて。
 その日こそ、世界に愛の溢れる日であり。
 お菓子メーカーの陰謀だと世界で一番陰口を言われる日でもある。
 そう――バレンタインデー。

〜合縁奇縁のミルフィーユ〜
  Special Is Valentine!

 正直、辟易しつつ、亮祐は教室のドアをくぐった。
 途端――男子全員の視線が凄まじい殺気を持って突き刺さる。
「あー、鬱陶しい……」
 亮祐はため息をついた。
 その殺気の理由は痛いほどわかるし、仕方ないかなとは思う。
 思うのだが。
 だからと言って、本当に殺気を込めるのはやめてほしい。
 実力行使は言わずもがなである。
(付き合ってる対価と考えるしかないのか……)
 校内随一の美少女、小笠原千尋と付き合って早数ヶ月。オタクの自分と付き合うまでの道のりは、当然のことながら平坦なわけもなく。
 幾つもあった障害を乗り越え、めでたく彼氏彼女になったのである。
 ――その話は別の場で。
 それはともかく。
 男子からは羨ましがれ、妬まれ、恨まれて。
 女子からはからかわれ、不思議がられ、多少は祝福されて。
 亮祐と千尋は初々しくも付き合っているのだった。
 しかしながら。
(バレンタインだからって、こうまで殺意オーラを出さなくてもいいじゃん……)
 早い話、亮祐に嫉妬しているのだろう。
 あの千尋から、本命チョコを貰えるのだから。
 例え、義理でも貰えるのなら狂喜するに違いない。
 もちろん、亮祐だって期待している部分は無きにしも非ずなのだけど。
 それを顔に出すのは何か負けるようで、表面上は冷静を装っていたりする。
 そんな男の子の、ある意味くだらないけれど、張らずにはいられない意地を張っていると、声が掛けられた。
「校内男子羨ましいランキング並びに呪い殺したいランキング、さらに幸せ者ランキングを1位総なめ、三冠おめでとう、リョウ」
「こ、このくだらないランキングは……」
 こんなことをする奴は一人しかいない。
「おは、リョウ。気分は爽快かい?」
「今のおめーのランキングで、爽快な気分が一気に台無しになったよ」
 にぱーと笑う英治に、亮祐は胡乱な目を向けた。
「おやおや。最強の美少女と付き合っている男にしては、随分と悲しい発言で」
「英治……。わかってて言ってるだろ、絶対」
 亮祐の状況を知っていてわざと言っているに違いない。
 そういうことをする奴なのだ、この親友は。
「あははは。ま、知ってるよ。クラス中の男子から負のオーラが噴出しているからな。リョウに向かって」
「だったら、ちったあ同情しろっ」
 しかし、英治はあっさり。
「やだ。小笠原さんと付き合ってる反動だから、諦めろ」
「それでも親友か、英治……」
 なんて友達がいのない。
「そう腐るな。どうせ放課後までの辛抱だろ。そうすりゃ小笠原さんからのチョコが待ってんだから」
 ニヤッと笑う英治に、亮祐は苦笑して肩をすくめた。
「へいへい。その通りでしたな。楽しみだなー小笠原さんの手作りチョコ」
「うわっ、やっぱ腹立つわー!」

 それなりの期待を持って向かえた放課後。
 亮祐が昇降口に着くと、そこにはニコニコしながら手を振る千尋の姿が。
「あ、来た来た。亮祐くーん、こっちだよ」
「おお。待っててくれたんか?」
「もちろんじゃない。だって、今日はバレンタインだよ? わざと言ってるでしょ?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
 ムッと眉根を寄せる千尋に、亮祐は苦笑しつつ靴を履き替えた。
 ただ、わざわざ待っていてくれたことが、純粋に嬉しかっただけなのだが。
「そお? ならいいや。じゃ、いこっ」
「はいはい」
 いつもの如く元気な千尋と一緒に、亮祐は学校を後にした。

 ――そのまま帰るのかと思っていたら。
「なぜに裏庭?」
 半歩前を行く千尋の後ろをそのままついていったら、連れてこられたのは人気のない裏庭。
 しかも、一度門を出てから学校をぐるりと回って、裏門から裏庭に入るという面倒なやり方。
 一体、千尋は何がしたいのか。
「だって、他の場所だと二人きりになれないんだもん」
「……はい?」
 何を言っているのかわからず、亮祐は目をパチパチとさせた。
「だ・か・ら! 他の場所だと二人きりになれないからここに来たの! 椿ちゃんとか純ちゃんがこっそり覗いてたりするんだもん!」
「あ。なるほどね……」
 亮祐は頷いて――はっとなって辺りを見回した。
 少なくとも、目に付く範囲に人影はなかった。
「……亮祐君も、色々と後を着けられたりしたの?」
「俺はそうでも……。つーかそっちはしたんだ?」
「うん、まあ。朝から『ちっひーはどこでチョコ渡すのさー?』って、椿ちゃんがしつこく訊いてきたりしたから。お願いだから邪魔はしないでねって何度も言い聞かせて、ようやく諦めてもらったんだよ?」
 心底疲れた、という感じで、千尋は息をついていた。
「あの噂好きが覗きたいってのはわかる気もするけど。されるほうは堪ったもんじゃないよな」
 覗かれて、いい気持ちになれるわけもない。
「うんうん。で、さ」
 急に千尋は声のトーンを変えると、亮祐を促して、ベンチへと座った。
「どうした……って訊くのも野暮か」
 この状況ですっとぼけるのもどうかと思うし。
「あ、うん。……亮祐君だってわかってるもんね?」
「取り敢えずは。期待している俺がいるよ」
 照れたように笑う千尋に、亮祐も苦笑して肩をすくめた。
「えへへ。じゃあ……はい、バレンタインのチョコレート。頑張って作ったんだよ」
 差し出されたのは、可愛らしくラッピングされた箱。
「ありがたく貰うね。小笠原さ――」
 ん、と言って受け取ろうと伸ばした手は、何故か千尋の手によって躱された。
「……えーと?」
 てっきり遊んでいるのだろうと思い、気にせずに再度伸ばしてみると。
 同じように躱された。
「…………」
 三度目の挑戦。
 ――結局躱される。
「……一体、何がしたい?」
 こんなことをする理由がわからず、訝しく思いながら千尋を見て――反射的に手を引っ込めた。
 なぜなら。
 千尋が、トコトン面白くなさそうな――ありていに言えば、不機嫌な表情をしていたからである。
「う〜……」
 さらに、唸り声まで上げていたりする。
「あ、あの、小笠原さん? ど、どうしたのかな〜?」
 さすがにここまでされると、何かしたんじゃないかと不安になる。
 おかなびっくり訊ねると、千尋は――
「また言った!」
「え?」
「また『小笠原』て苗字で呼んだ! 名前で、『千尋』て呼んでって何度も言ったのに! 私はちゃんと『亮祐君』って名前で呼んでるのに!」
 駄々っ子のように叫び地団駄を踏んでいた。
「あ、いや、それは……」
 千尋と付き合うことになった後。
 千尋から、「名前で呼び合おうね」とお願いされ、それを了承したはいいものの。
 すぐには呼ぶことはできず、しばらく経ってから呼べるようにはなった。しかし、それでも苗字で呼んでしまうことがしばしばある。
 それが千尋には大層ご不満らしい。
「……言って」
「え?」
「私のこと、ちゃんと名前で呼んで! 今、ここで!」
「どええっ!? 今!?」
 いきなりはちょっと待ってくれ――と言いかけ、その言葉を寸前で飲み込む。
(悪いのは俺だし……)
 千尋の言うことも一理あるし――と、亮祐は思い直し、ゆっくりとその名を紡いだ。
「えーと、ち、千尋?」
「うん、合格♪」
 千尋はにっこりと笑い、改めてチョコレートの箱を差し出してきた。
「今度こそ貰えます?」
「うん、ちゃんとあげるから、どうぞ。結構自信作だよ」
 亮祐は受け取った箱の包装を剥がし、中を見てみるとと、ハート型や星型のチョコが綺麗に詰め合わされていた。
「食べてもいい?」
「もちろん。食べて食べて」
 いただきます、と一言言ってから口にチョコを放り込む。
 ――甘すぎず、苦すぎず。硬すぎず、柔らかすぎず。
「うん、美味い」
 かなり上出来に入るだろう。というか、文句など出るはずのない美味さ。
「本当!? よかったあ。美味しくなかったらどうしようかと思っちゃった」
 ほっとした表情の千尋。
「イヤイヤ、本当に美味いよ。ありがとう、お……千尋」
 また苗字で呼びそうになったが、何とか回避。
「うん。ラム酒とかね、色々入れてみたりしたんだ。上手くいったみたいだね」
「酒も入ってるのか。へえ」
「もちろん、香り付け程度だよ。だから大丈夫」
「その辺は心配してないけど」
 チョコレートを食べて酔っ払ったりしたら、それはそれで問題だろう。
「あはは、それもそうだよね。私も一つもらお。……そうだ」
「?」
 千尋は適当に摘まんだチョコを自分では食べずに、亮祐の口許へと差し出してきた。
「はい。あ〜ん」
「なっ!? おい、こら」
 思わず仰け反るが、そんなことなどお構いなしに、千尋は手を伸ばしてくる。
「いいから。はい、あ〜ん」
「できるかあっ!」
「ダメ。あ〜ん」
「だからっ」
「あ〜ん」
 さらに伸ばされる千尋の腕と、近づいてくるチョコレート。
「人の話、聞いてるか!?」
「あ〜ん」
 どうやら聞いていないらしい。
「……もういい」
 これ以上の抵抗は不可能と判断し。
 亮祐は嘆息してから口を開けたのだった。

 ――その様子を、ニヤニヤしながら見ている二人の姿があった。
「あ〜あ。何、あのラブラブっぷりは。砂吐きそうじゃん」
「バレンタインだもの。仕方ないんじゃない」
 話しているのは、千尋の友人である本田椿と住友純子。南雲璃々はとっとと帰ってしまっていていない。
「すぐに破局するかとも思ってたけど、そんな様子ないね」
「むしろより親密になってる感じよね」
 うんうんと頷き合う。
 ――二人がいるのは裏庭に面した、三階の非常階段出口。
 そこから、下の二人を覗いているわけである。
 見つからないかと思ったが、意外と「上」への注意は散漫らしく、全く気がつかれていない。
「ま、あの分ならほっといても全然……ん?」
「そろそろ帰るみたいね」
 亮祐と千尋の二人が立ち上がり、裏庭から出て行くところだった。
 ご丁寧に、仲良く手を繋いで。
「おやおや。目に毒だわー」
 椿がカラカラと笑うが――すぐに眉根を寄せて、チラッと後方へ目をやり――ため息をついた。
「あっちはあれでいいけどさ、こっちはどうしようもないね」
「阿鼻叫喚地獄絵図ね、まるで」
 純子も椿と同様の表情で、やれやれと首を振った。
 二人の後ろには。
 血の涙を流し、呻き声を上げ、悶絶している男子生徒が十数名。
「仕方ないか。仲睦まじい姿をああも見せつけられちゃ」
「ショック死しなかっただけ、よかったんじゃない」
 彼らは、二人と同様に亮祐と千尋を覗き見に来て、多大なるダメージを受けたご一行様である。
 中には交際を信じようとはしてない者もいたくらいで、それだけに、ショックは甚大だったようだ。
「さて、あたしらも帰ろっか」
「そうね。この人たちは放っておけばいいし」
「さあて。明日、ちっひーをどうやってからかってやろっかなー?」
「やめなさい。覗いていたのがばれるから……」
 二人は阿鼻叫喚の中、その場を後にした。
 

 余談だが。
 翌日の朱鷺之宮高校は全校男子の2割が欠席したが、それはそれだけの話である。


INDEX
創作小説の間に戻る
TOPに戻る